過去にタイムスリップする作品は、今までにも多く描かれてきた。恐竜の世界へタイムスリップするというのもまた然り。だが、今回のように大きなスケールで描かれるタイムスリップものは、他にあるだろうか。
恐竜の闊歩する白亜紀に町が一つまるごとタイムスリップしてしまったら、町に住む人々はどうするのか?山田正紀『竜の眠る浜辺』は、異変に直面した人々を群像劇形式で描く幻想SFである。
百合ヶ浜町。そこはフジナデシコのような町。
作品は「フジナデシコが咲いていた。」というフレーズから始まる。フジナデシコは日本に広く分布するありふれた花で、ふだんは誰の目に留まることもなく佇んでいる。本書の舞台となる百合ヶ浜町もそんな花のような町だった。人口2000人足らずの、どこにでもあるようなありふれた町。
そこに住むのも特別な人々ではなく、ごく普通の人々だ。サボテンの栽培を趣味とする寺暮らしの青年・田代正昭、高校生の少女・藤田麻子、スーパーの経営者・久能直吉、タバコ屋のシズ婆さん。そんな普通の人々が暮らす百合ヶ浜町に異変が起きる。
百合ヶ浜町を、濃い霧が覆ったのだ。
霧に包まれてから1日が明け、町の至る所で異変が起きていた。久能直吉の屋敷には何者かが押し入り、ニワトリ小屋の卵が奪われる。シズ婆さんの庭には見たこともない植物が生えており、暴走族の青年は浜辺で奇妙な動物の骨を見かける。
そして2日目。百合ヶ浜町の住人はようやく異変に気付いていく。
「なんで百合ヶ浜の海岸に白亜紀のアンモナイトがいくらでもみつかるのかね。理屈にあわない話じゃないか……」By田代正昭
現代の生物ではない存在に初めて出くわしたのが、シズ婆さんの飼いネコである。百合ヶ浜町の大通り、百合大路をネコが闊歩していると、もやの中に動く何かがいた。ネコは狩猟本能を発揮して飛び掛かったものの、それは宙に浮き、空へと飛び去って行った。
ネコが勝負を挑んだのは、翼竜(作中表記:テラノドン)だったのだ。
そのころ、惰眠をむさぼる田代正昭の元に知り合いの少年・工藤夏樹が訪ねてくる。彼が田代に見せたのは、アンモナイト。それも化石ではなく生きたアンモナイトだった。さらに、工藤夏樹と藤田麻子は沼で、カモノハシ恐竜のコリトサウルスを目撃する。
現代では存在するはずのない恐竜や、その時代の植物が百合ヶ浜町に出現したのだろうか?否、百合ヶ浜町そのものが恐竜の生きていた時代、白亜紀にタイムスリップしていたのだ! 百合ヶ浜の町の電話や無線は当然、全て通じなくなり、この異変によって現代から百合ヶ浜町は消失してしまった。
3日目。町で起きた事態に気付いた人々はそれぞれ行動を始める。町役場によって町内の商店は共同管理下に置かれ、ティラノサウルスに立ち向かっていく人も現れた。現代から切り離されて白亜紀に突如、放り込まれてしまった町で、住人たちは生き延びるために行動を始めていく。
極限のなか、人々は生きることの意味を見つめなおす
普段暮らしている時代から別の時代、しかも恐竜が存在する時代にタイムスリップしてしまった人々。この事態を切り抜け、生きていくためにどうするべきか行動していく様子と人間模様が描かれている。
逆に、なぜ町がタイムスリップしたのか詳細な理由は一切書かれておらず、ネタバレを承知で言えば、百合ヶ浜町の住人が現代に戻るかどうか、結末で描かれていない。
百合ヶ浜町で暮らす人々は英雄、天才科学者などの際立った特別な人間ではなく、ごく普通の一般人である。中には挫折を経験し、鬱屈とした気持ちを抱えている人々もいる。そんな人々が、町全体がタイムスリップするという未曽有の事態にどう立ち向かっていくかにフォーカスを当てている小説である。
スーパー、ガソリンスタンド、パチンコ屋といった多角経営で成り上がり、町の名士とも言える久能直吉は強欲で傲慢な人物として登場したが、この異変によってスーパーの商品はおろかガソリンスタンドも町の管理下に入ったことで、築き上げたものを失い落胆してしまう。そんな彼を後押しするのは普段はもの静かな妻、ヨシ江である。ヨシ江の一喝により、直吉は再起に向けて立ち上がる。
直吉の息子、直己も幼い頃から父親に対する劣等感を感じ、父親から離れる一心で上京したものの、会社が倒産して百合ヶ浜町に戻っていた。毎日、鬱屈した気持ちで暮らしていた彼も、今回の異変によって成長し、傷心にある小料理屋の女性・桂子との絆を深めていく。
世話好きなシズ婆さんも内心では憂うつ症を患っていたが、町に現れたスピノサウルスに果敢に立ち向かい、最後には撃退する。初めて白亜紀の生物、翼竜に遭遇したシズ婆さんのネコも、再び相まみえてリベンジを果たす。
静かな感動を呼ぶ結末
本作では、町に暮らす人々が異変を前に懸命に生きようとした結果、生きる理由を見つけ、立ち直っていく姿が描かれている。皮肉にも異変が人々を立ち直らせていくわけだが、エピローグでは百合ヶ浜町の人々が白亜紀で生きていく姿が描かれ、一人孤独に生きていたある人物の心も変わっていく、感動的な結末で幕を閉じる。
この物語は、手に汗握る冒険活劇ではない。白亜紀の恐竜、ティラノサウルス、コリトサウルス、スピノサウルス、ストルシオミムスや翼竜、首長竜といった古生物が現れる様子が静かに描かれているが、現代に生きる人々が白亜紀にタイムスリップしたとき、すなわち人間が極限的な状況で自分を問い直すことが必要になったとき、何を考えどう生きていくのかを主眼に書かれた作品である。
書名:竜の眠る浜辺
作者:山田正紀
出版社:角川春樹事務所
出版月:1979年5月