はじめに
H.P.ラヴクラフト(1890-1937)は、アメリカの小説家である。『クトゥルフの呼び声』を始めとする一連の怪奇小説は、彼の死後、友人らの手によって「クトゥルフ神話」として体系化され、今日に至るまで多数の作家がクトゥルフ神話を取り入れた作品を発表している。
本連載では、H.P.ラヴクラフトの短編小説『ダゴン』をテキストに英文読解を行い、英語の小説を原文で読む力を養う。
なぜラヴクラフトか
知名度、SFとの親和性、著作権の状況等から総合的に判断した。また、ラヴクラフトの作品の中でも『ダゴン』を取り上げたのは、以下の理由による。
1)英語、日本語のテキストが著作権フリーで利用可能
2)挫折しにくく、読了した際の読み応えもある、適度な長さ
3)クトゥルフ神話の最初期の作品であり神話入門としても最適
タイトルの「なんとかして」とは
クトゥルフ神話TRPGなどを通じてラヴクラフトに興味を持った高校生あたりが、なんとかして英語でラヴクラフトを読む一助になればという意味と、担当者自身の英語読解力が怪しい部分もあるが、なんとかして最後まで『ダゴン』を読解したいという意味である。
前置きはこれくらいにして、早速『ダゴン』の導入部から読んでいきたい。『ダゴン』は、狂気に陥りつつある人物の手記という体裁で始まる。なお、ラヴクラフトの小説の主人公はたいてい宇宙的恐怖に接して死ぬか狂うので、もはやお約束の状況とも言える。
原文
I am writing this under an appreciable mental strain, since by tonight I shall be no more. Penniless, and at the end of my supply of the drug which alone makes life endurable, I can bear the torture no longer; and shall cast myself from this garret window into the squalid street below. Do not think from my slavery to morphine that I am a weakling or a degenerate. When you have read these hastily scrawled pages you may guess, though never fully realise, why it is that I must have forgetfulness or death.
出典:wikisource https://en.wikisource.org/wiki/Dagon下線部は作者による
appreciable :かなり大きな
strain :緊張、疲労
shall :単純未来を表す(今日ではwillを使うのが普通)
penniless :ひどく貧乏な
supply :在庫
endurable :耐えられる
cast :投げる、放る
garret :屋根裏部屋
squalid :不潔な
slavery :奴隷であること。ここでは麻薬morphineの虜になっている状態を言う。
weakling :虚弱者
degenerate :堕落者
scrawl :なぐり書きする
解説
garret, squalid, degenerate…。大学入試やTOEICなどでは見慣れない単語も多いものの、単語の意味さえ分かれば、文章の意味を取るのもそれほど難しくない。
I shall be no more の部分は、willの代わりにshallが使われているが、これは古い用法。「ダゴン」は100年近く前の作品なのでご愛嬌といったところか。もっとも、ラヴクラフトがわざと古めかしい文章で書いている可能性もある。
最後の下線部後半は、慣れないとやや読みにくいので、少し詳しく解説する。要するに、why it is thatの部分は、疑問詞whyの強調構文である。
強調しない普通の文は下のような文
Why must I have death?(なぜ私は死ななければならないか)
疑問詞whyをit is thatで強調すると、
Why is it that I must have death? (一体なぜ私は死ななければならないか)
この点、『ロイヤル英文法』には、「Itの特別用法」の箇所に、It is〜that…の強調構文の例として、疑問代名詞を強調した以下の文が紹介されている。適宜参照されたい。
What was it that he wanted you to do?(彼が君にしてほしかったのは何なのだ)
why以下の部分を、動詞guessの目的語として間接疑問文にすると、間接疑問の部分は、平叙文と同じ語順になる(why is itがwhy it isになる)ので、
You may guess why it is that I must have death.(一体なぜ私は死ななければならないか、あなたは推測できるだろう。)
これで下線部の基本的な構造と同じになる。「疑問詞 is it that」の形に慣れておきたい。下線部で付け加わっている、冒頭のWhen節、途中のthoughによる挿入句については、説明不要であろう。今回はここまで。
かなりのストレスを感じながら、これを書いている。今夜にはもう、生きていないだろう。金も、頼みの綱のクスリも尽きた。これ以上、苦しみには耐えられない。
この屋根裏の窓から、下のうす汚い通りに、身を投げることにしよう。モルヒネ中毒が原因で、身体が弱り、精神も堕落したのだと考えないでほしい。
乱雑に走り書いたこの文章を読んでもらえば、完全に理解するのは無理にしても、一体全体なぜ私が忘却や死を望んでいるのか、見当はつくと思う。
出典:青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001699/files/57443_58144.html
なお、創元推理文庫の『ラヴクラフト全集 3』には、プロによる優れた『ダゴン』の翻訳が収録されているが、著作権の関係で残念ながら掲載できない。